銀河英雄伝説のお気に入り名言(迷言?)集 (1)黎明篇
銀河英雄伝説が大好きです。
初めて読んだのは小学校高学年の時、父ちゃんの本棚から面白そうなタイトルの本を見つけて引っ張り出したのがきっかけでした。
小学生当時の僕には難しくてすぐに本棚に戻しちゃいましたが、高校生くらいの時に再度読んでみて、ハマりました。
魅力的なキャラクターから発せられる、魅力的な言葉。
名言と迷言の宝庫なのも、この小説の特徴です。
当時はお気に入りの言葉のページに付箋を貼ったりしていたので外に持ち出して読むのはちょっと恥ずかしい感じでしたが、今は電子書籍があるのでいいですね。
もちろん、電子書籍版も全巻買いなおしています。
誰かに紹介するというより自己満足の世界ですが、お気に入りの名言と迷言をいつでもどこでも読めるように残しておきたいと思います。
まずは、第1巻である黎明篇から。
民衆が根本的に、自主的な思考とそれにともなう責任よりも、命令と従属とそれにともなう責任免除のほうを好む
できることと、できないことがある
独裁者は出現させる側により多くの責任がある。積極的に支持しなくても、黙って見ていれば同罪だ
要するに三、四〇〇〇年前から戦いの本質というものは変化していない。戦場に着くまでは補給が、着いてからは指揮官の質が、勝敗を左右する
戦う以上、犠牲が皆無ということはありえない。だが同時に、犠牲の増加に反比例して戦勝の効果は減少する。この双方の命題を両立させる点に用兵学の存在意義があるはずだ。つまり最小の犠牲で最大の効果を、ということであり、冷酷な表現をもちいれば、いかに効率よく味方を殺すか、ということになるであろう。
智将と呼び、猛将と言う。それらの区分をこえて、部下に不敗の信仰をいだかせる指揮官を名将と称する
専門家が素人におくれをとる場合が、往々にしてある。長所より短所を、好機より危機をみてしまうからだ。
どんな組織でも機械でも、運用するのはしょせん、人間だ。上位にたつ者の才幹と器量しだいで、虎が猫にもなりにもなりその逆にもなる。
黙ってたえているばかりで事態が改善された例はない、誰かが指導者の責任を糾弾しなくてはならないのだ。
非戦闘員を虐殺したとか休戦協定を破ったとかの蛮行があった場合はともかく、本来、名将と愚将とのあいだに道義上の優劣はない。愚将が味方を一〇〇万人殺すとき、名将は敵を一〇〇万人殺す。その差があるだけで、殺されても殺さないという絶対的平和主義の見地からすれば、どちらも大量殺人者であることに差はないのだ。
やたらと恩賞をあたえるのは窮迫している証拠だと古代の兵書にあります。敗北から目をそらせる必要があるからだそうです
きみにならできる……古い伝統をもつ殺し文句だな、とヤンは考えた。この甘いささやきにプライドをくすぐられて不可能事に挑み、身を誤った人々のなんと多いことか。そして甘言を弄した側が責任をとることはけっしてないのだ。
予定どおりことがはこぶことは、めったにありませんよ。といって予定をたてないわけにもいきませんしね
吾々がつぎの世代になにか遺産を託さなくてはならないとするなら、やはり平和がいちばんだ。そして前の世代から手わたされた平和を維持するのは、つぎの世代の責任だ。それぞれの世代が、のちの世代への責任を忘れないでいれば、結果として長期間の平和がたもてるだろう。忘れれば先人の遺産は食いつぶされ、人類は一から再出発ということになる。まあ、それもいいけどね
死をもって敗戦の罪をつぐなうというのなら、それもよかろう。だが、それならなぜ、自分ひとりで死なない。なぜ部下を強制的に道連れにするのか。
戦いつづけていれば、いつかは負ける。そのときどう掌が返るか、他人事ならおもしろいがね。
ひとりの重臣にたいする民衆の不満は、体制全体にたいする不信に、容易に増幅するのだ。
人間が老いを約束されているように、国家は堕落と頽廃を約束されているのかもしれない。
それは高度の柔軟性を維持しつつ、臨機応変に対処することになろうかと思います
人間の想像力は個体間では大きな格差があるが、集団としてトータルでみたとき、その差はいちじるしく縮小する。ことに新兵器の出現は技術力と経済力の集積のうえに成立するもので、石器時代に飛行機が登場することはない。
自分の才能をしめすのに実績ではなく弁舌をもってし、しかも他者をおとしめて自分を偉くみせようとする。自分で思っているほどじつは才能などないのだが
人間の社会には思想の潮流が二つあるんだ。生命以上の価値が存在する、という説と、生命に優るものはない、という説とだ。人は戦いをはじめるとき前者を口実にし、戦いをやめるとき後者を理由にする。それを何百年、何千年もつづけてきた
圧倒的にヤン・ウェンリーの言葉が多いのは、やっぱり一番好きなキャラクターがヤン・ウェンリーだからです。